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私的SKE48論2nd(その3)

今回のお題は、「AKB48という現代の巫女神信仰(1/3)」

 二年ほど前から「最後の二本」と言っていた内の一本目がこれです。本当は中論文位の規模で考えていたんだけど、(いつもの通り)筆者の根性が足り無すぎて、箇条書きみたいな内容になっちゃいました(泣)。何とか意味が通じていると良いんですけど。もちろん誰もこんな文章は求めていないのは判っているんだけど、筆者が昔から“AKBは絶対に成功する”とか“AKBが短期間で滅びる事は絶対に無い”と断言してきた最大の根拠として、今回述べるAKBの持つ宗教性と、「AKBが史上初のボトムアップ型インタクティブの完成形である事」(←別項にて)の2点が最重要だと考えているので、書かずに終わる事は出来なかったんですよね。他の芸能人とAKBが明確に異なっているのは、実はこの2点だけなのではないでしょうか。一般の方には非常に退屈な内容だと思うんで、「何故AKBだけが、他の芸能人と違って何年経っても下り坂にならないのか」という事に本気で関心のある方だけ、先をお読みください。

 我々日本人は(筆者も含めて)99%以上が農民の末裔です。日本人の国民性として何千年(下手をすると何万年)も以前から続いているものとして「日本人は歌ったり踊ったりするのが大好き」「日本人は新しいものが大好き」というものがあります。これに世界的にも数少ない「多神教(=アニミズム)」が組み合わさる事で、日本にはかなりオリジナリティの高い、独特の文化が形成されたと考えられます。(ここからはアイドルの起源を遡る話なので少し偏った話をしますが)今から僅か百年ほど前までは、我々の直系の先祖である農民たちの楽しみと言えば、年に数回程度の村祭りしかありませんでした。村祭りでは我々の直系の先祖である農民たちは、年少の巫女の神楽を中心として、歌ったり踊ったり酒を飲んだりして、大騒ぎをして普段の憂さを晴らしました。恐らくAKBの直接の起源は、この農村の季節毎の祭りにさかのぼれると筆者は考えます。つまりAKBとは現代版の、<<何千年にも渡って日本人の遺伝子に刻み付けられた祭りの記憶>>そのものなのではないか、と言うのが本論の趣旨となります。

 戦後、農村文化が本格的に廃れて都市化が進むと、当然村祭りも廃れて過去の信仰は薄らいで行った訳ですが、そうした中で新たに人々の間で信仰として定着したのは「プロ野球」だったと筆者は考えます。当時のプロ野球のスキルレベルは「MLBの3A程度」と言われましたが、人々は<<レベルの高低とは一切関係無く>>歌ったり踊ったり酒を飲んだりしながら、力の限り贔屓のチームを応援し続けました(※逆にプロ野球にせよJリーグにせよ、スキルレベルが上昇するにつれて人気が下降していくという現状を、きちんと認識してください)。つまり「応援する」という行為自体が重要だった(というか楽しかった)わけで、応援対象のレベルの高さはそれほど重要ではなかったという言い方も出来るかもしれません(←この点は現在の女性アイドル語る際の非常に重要なポイントです)。そうした中で、1970年代に日本にも史上初の女性アイドル歌手(一説によると南沙織)が誕生します。しかし筆者の考えでは、こうした初期のソロの女性アイドル歌手達は、直接的にはAKBには繋がっていません。何故かと言うと、彼女たちは我々日本人の遺伝子に刻み付けられた「多神教型のアイドル」ではなくて、欧米の価値観である「一神教型のアイドル」により近かったからです。ではこの両者はどこが異なるのか。それはアイドル発祥の国アメリカを代表する女性アイドルを列記していけば、すぐに判ります。例えばマドンナ・シンディローパー・ビヨンセ・ブリトニースピアーズ・レディーガガといった所でしょうか。彼女達の、現在の日本の女性アイドルとの違いを列記していくと、

・基本的にソロである(←現在の日本の女性アイドルは基本的にグループ)
・基本的に歌唱力を重視する(←現在の日本の女性アイドルは基本的に皆揃えてのダンススキルを重視する)
・パフォーマンスレベルが非常に高い(←日本の女性アイドルにはそこまで高いレベルを要求されない)
・非常に高年齢まで活動が可能(←日本の女性アイドルは十代がピーク)
・男性関係のスキャンダルが致命傷にならない(←日本の女性アイドルは即致命傷になる)
・犯罪行為(※程度によるけど)すらも致命傷にならない(←日本の女性アイドルはタバコを吸っただけで永久追放になる)

欧米スタイルのアイドルは日本では“アーティスト”という言葉に置き換えられる事も多いのですが、いずれにしても全く異なった価値観に基づいている事が判ります。これこそが「一神教」と「多神教」の違いなんですよ。欧米式一神教型のアイドル(※アイドルという言葉は本来『偶像』と訳されます。つまりアイドルを応援するという言う事はある種の『偶像崇拝』を意味します)であるという事は、すなわち<<アイドル自身が唯一神そのものである>>という事です(←だって神が一人しか居ないから一神教なわけですよね?)。だから神そのものであるアメリカのアイドル達には、我々凡俗の価値観なんて、一切通用しないわけです。多少頭がおかしい事を口走ろうが、男と出来ようが、結婚しようが離婚しようが、犯罪を犯そうが(←さすがに状況によりますが)、彼女達の価値は一切落ちる事はありません。だって彼女達が神そのものなのだから、何をするのも自由なんですよ。彼女達の価値が無くなるのはあるシチュエーションにおいてのみです。すなわち<<ファンが望むパフォーマンスが出来なくなった時>>です。彼女達は唯一人の神である以上、(少なくともファンにとっては)世界で一番歌やダンスが上手い人である必要があります。それが出来なくなれば、もはや神ではいられなくなります。

 しかし日本の「多神教型アイドル」は全く事情が異なります。日本のアイドルは基本的に、『神』ではなくて『巫女』なんですよ。そして巫女の仕事というのは、神を自らの内に降ろして、神の言葉を神の代わりに人々に伝える事です(※従って巫女の職務は信徒との信頼関係なくしては成立しません。詳しくは後述します)。つまり彼女達は神そのものではなくて、(舞台の上でのみ降臨する)神を受け入れるための“器”にすぎません。だから彼女達は人数が多い事を全く苦にしませんし(※神は八百万柱いるので、器の数に上限はない)、歌やダンスが下手でもそれほど大きな問題にはならない(※だって彼女達は器ではあっても、普通の人間に過ぎないんだから)のだけれども、厳しいレッスンを行う必要があり(※神を降ろす為には「禊の儀」が必要です)、処女である必要があり(※基本的に神は処女にしか降りません)、年齢的にも上限があります(※適齢期を過ぎた女性は基本的に処女とは見なされなくなるので)。極論すれば、ファン達がコンサートで声援をおくっている対象は彼女達自身では無くて彼女達の内に降りた神に対してなのだ、とも言えるかもしれません。もうお分かりの事と思いますが、日本の女性アイドルという職種だけが何故ここまで執拗に処女性を求められるのかというと、それは(彼女達の人間性がどうなのかという問題では無くて)巫女として神を降ろすのにふさわしい人材なのかが問われているのだと思うんですよね。つまり日本人の太古から連綿と続く遺伝子に刻み付けられた宗教的な価値観において、“アイドル(=巫女)は処女である必要がある”というのは絶対に譲れない一線なのだと考えられます(みんな全く意識していないと思うけど)。逆に現在は「女性アイドルだって人間なんだから、処女性にはこだわらない」とする考え方もあるわけですが、この考え方は日本人の伝統的な宗教観からは外れた考え方なので(※かと言って欧米式の一神教的な宗教観でもない)、非常に新しい考え方と言えるかも知れません。

 AKBがこうした『巫女を中心として祭りを行うという何千年に渡って連綿と続く、日本人の遺伝子に刻みつけられた農村文化』を完全に継承した存在だという事がお解かりいただけるでしょうか。AKBのファン達は、それほど上手くも無い彼女達のダンスに熱狂し(※農村の祭りの中心で神楽を舞う低年齢の巫女達が、スキル的に高かったとは到底思えない)、彼女達にミックスを捧げ(※農村の祭りでは巫女の舞にお囃子を行ったり一緒に踊ったりしていたと思われる)、彼女達のグッズを大量に購入し(※祭りでお札やお守りを買ったり金品を寄進するのは当然のことです)、CDを大量に購入して握手会に行きます(※祭りは参加してこそ楽しいというのは日本人の伝統的な考え方です)。一方AKBの年間スケジュールに関しても、まず正月三箇日(=セットリストベスト100。4日間だけどね)を祝い、夏には夏祭り(=選抜総選挙)を行い、秋には秋祭り(=じゃんけん大会)を行い、年末は家で家族とゆっくりと過ごす(=テレビで紅白歌合戦を見る)。つまりAKBの年間スケジュールは、日本の伝統的な農村の暦とほとんど一致している事が判ります。・・・一体これらのどこに新規性(=2~3年で終わってしまうブーム性)があるというのでしょうか?。完全に「日本人の伝統的な価値観」と一致しているとは思いませんか?。人間がたかだか数千年やそこらで劇的に進化するなんて、あるわけがない。結局我々現代人と言えども、本質的な部分では弥生時代に卑弥呼を崇拝していた人々と何一つ変わらないって事です。そして、だからこそAKBは絶対に滅びないと断言できるんですよ。そして、だからこそAKBの本質については(一神教を奉ずる)欧米の人達には絶対に理解出来ないと思うんですよね。

 もう一歩踏み込んで、「宗教としてのAKB」の価値について簡単に論じてみます。はっきり言ってしまえば、AKBは宗教として考えても非常にレベルが高いと考えます。例えば日本の仏教とは、(本来仏教では妻帯厳禁であるにも関わらず)法律で国に「結婚しても良いよ」と言って貰った途端に子供をばんばん作ってしまった人達の集団です。今となってはその事について論じる人はほとんどいないけどね。それに対してAKBは、現在進行形で「巫女が処女である必要があるのか」を論じている、ほぼ唯一の場と言っても良いでしょう。少なくとも現時点では、禁を犯せばメンバーは永久追放です。これほどきちんとした教義を持ち、そして教義の内容が活発に議論されている(←結論が出るとは到底思えないけど)宗教は、少なくとも日本には他にはほぼ存在しないと言って良いのではないでしょうか。また震災復興に関しても、AKBは巫女としての役割をきちんと全うしました。数百億円の金も寄付しましたし、無料での復興支援コンサートも定期的に行っています。それに比べて筆者の地元の氏寺の連中が震災復興に対して何をやったかと言えば、もちろん何もやっていないわけで、やる事といえば寄付を募って金集めをする事と、自分の子供に寺を継がせるために節税に励む事だけ。こんな奴らに税金を優遇する位なら、AKBに対して税金を免除しろよと筆者的にはかなり本気で思っていたりするわけですが、まあ資本主義の社会では駄目な物は必ず滅びるので、日本の葬式仏教も時間の問題だと思うんでどうでも良いんだけどね。閑話休題。彼女達がよく口にする「みんなを元気にしたい」というタームに関しても、鎌倉新仏教の踊念仏あたりも最初の頃は多分その程度の事しか考えて無かったんじゃないかと思われ、十分に教義として成立していると思うんだよね。つまり日本の女性アイドル(特にAKB)が宗教性を帯びるのは、むしろ<<必然>>であると筆者は考えます。

続く

(この文章の内容は、筆者の個人的な見解であり、他の如何なる個人・団体とも一切関係ありません。また文責は全て筆者個人にあります。何卒ご了承ください)

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コメント

本来、文化というものは須らく信仰と深く関わりがあるものなので、AKBのようなロイヤリティが重要な存在は、部外者が客観的に見れば宗教的に見えるのは確かに当然だと思います。
しかし、処女性まで日本の多神教文化の歴史に組み込むのはちょっと無理があると思います。
巫女が依り代であるのは確かですが、古事記に代表する古典では性的な描写も多く、また、江戸時代などの風俗、文化でも性はかなりオープンになっていたのは確かであり、そういった時代では、神の世界で性を禁忌としては見ていなかった文化が日本の伝統、ともいえます。
処女性が重要とされたのは、文化としてみれば、むしろ一神教であるカトリックであり、その影響が入ってきた明治時代以降の日本ではないでしょうか。
まぁ、ですから、時期を正確に特定することは難しいかも知れませんが、処女性を云々するのは必ずしも遺伝子の刷り込みとしてではないものとして捉えた方が、現実により近づけるのではないでしょうか。

投稿: | 2012.12.01 23:56

こういった切り口で書けるのが本当に感心します。
面白いです。

そう言えば、小林よしのり氏が、
小笠原茉由のダンスは巫女が舞っているみたいで最高だ
と言っていたのを思い出しました(笑)

投稿: イオタ | 2012.12.29 09:04

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