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「勇者王ガオガイガー(改訂版1)」(1997年)

アニメ脚本家烈伝:<壱の巻>〝ロボットアニメの職人”五武冬史(鈴木良武) その十三

 1995年という年は、世界におけるアニメのあり方が大きく変わる年となった。アメリカでアニメの内容に関する規制緩和が進み、それと共に日本でも今までの「子供向け」と言う言葉では括り込めない作品が次々と生まれてくることになったのだ。先鞭を切る形となったのが「新世紀エヴァンゲリオン」であるのは、言うまでもないだろう。筆者は現在のアニメのあり方を、「エヴァ以前」「エヴァ以降」という言葉で表現しているが、それだけの価値のあった作品だと思う。エヴァ論はあまりにも長くなりすぎるので別の機会に譲るが、結局のところエヴァが凄かったのは、”アニメとは何でもあり”だということを実証して見せた事なのだと思う。夕方6時の子供向け番組でSEXシーンを流すのもあり、伏線を張るだけ張って謎解きをしないのもあり、宗教や政治に抵触する内容を流すのもあり、他作品のシーンをパクリまくるのもあり、とにかく、みーんなありになったのだ。このことに、日本のアニメクリエイター達は、一様に衝撃を受けたことと思う。今まで「アニメは子供向けだから」「アニメは制約がいっぱいあるから」という言い訳で手を抜いてきたのが、ついにそれが通用しない世の中がきてしまったのだ。

 我等が五武先生はこの時期、ガンダムに対する勝利でリアルロボットとの戦いからすでに開放されていたし、後はまったりと原作付き作品(この頃はダーティペアFLASH)でも作って年輪を重ねていこうと思っていたのではないだろうか。「鉄腕アトム」から何年経っているか計算してみて欲しい、五武先生とて結構な御年のはずなのだ。・・・しかしエヴァが出現してしまった。エヴァを観てしまったからには、全てのアニメクリエイターは自らの”矜持”を示す必要にせまられることとなった。言わば、エヴァへの「返答」をする必要に迫られたのだ。五武先生とて、現役のクリエイターである以上、例外ではなかった・・・。(各クリエイターは、だいたい99年前後に、「エヴァへの返答」を書いている。黒田洋介は「無限のリヴァイアス」を、倉田英之は「今、そこにいる僕」を、小中千秋は「THEビッグO」を、・・・ってきりが無いね(笑))

 ここでまたも高橋監督(笑)より、勇者シリーズへのオファーが届く。もはや時代は何でもありのバーリテュード状態、子供向けの枠だからと気にかける必要など全く無い時代に突入していた。この時の五武先生にとっては、やりたことができるなら、少々の制約(基本的に勇者シリーズは、ロボットのおもちゃを売るのが目的)などどうということは無かったろう。打倒エヴァのため、五武先生は秘策を巡らした。まず主役ロボの胸には、五武先生のエンブエムである「獅子の頭」を付けた。・・・といっても何のことだか判らないだろう。過去のアニメにあった、胸に獅子の頭を付けたロボットを思い出してみて欲しい。「未来ロボダルタニアス」「伝説の勇者ダ・ガーン」というスポンサーも製作会社も監督もみんな異なった二つの作品が思い浮かべられると思う。共通点は唯一つ、五武先生がシリーズ構成をしているという一点のみである!。ガオガイガーの胸の獅子は、五武先生が作ったスーパーロボットの証に他ならないのだ。

 さて筆者は、何の前情報もなくこのガオガイガーを見た。1~3話まで連続で五武先生が書いているなんて、テレビシリーズではボトムズ以来ではないか。それほど五武先生はこのガオガイガーに賭けていたのだろう。・・・しかし筆者には、第一話を観ても、それほどまでの五武先生の想いを感じ取ることができなかった。子供向け番組としては確かに面白い。エヴァから引っ張ってきていると思われる表現(合体の手続き手順を、そのまま見せ場にしてしまう、など)も随所に見受けられた。だが五武先生らしい、”先鋭的なコンセプト”はほとんど感じられなかった。第二話に関しては・・・、正直あまり面白くもなかった。ただ膨大な設定に対する紹介が必要な時期であり、その辺は割り引いて考える必要はあったのだろうと思う。そして運命の第三話を迎える。最初の15分は、大して面白くは無かった。そして戦闘が始まると、ガオガイガーは「ディバイディングドライバー」(以下DDと表記)という武器を召還した。召還手順は、さすがにエヴァ以降の作品だけあってとても良くできていた。筆者もDDがOPに出てきた巨大な槍のようなものだという認識はあったので、これでかっこよく敵をやっつけるんだろうな、という軽い気持ちで見ていた。しかし実際には、このDDは地面に突き立てられるのである。そしてその一連のシークエンスを見ていく内に、五武先生が踏み込んではならない領域に踏み込んでしまったことに慄然とするのだった・・・。

 なぜ筆者が衝撃を受けたか順を追って説明しよう。本来リアルロボットというムーブメントも、この五武先生の第四法則であるバトルフィールド理論の「人間のいる街」での戦闘に端を発している点も今まで述べてきた。この後のリアルロボットもの(特に富野監督)のバトルフィールドも、最初の五武先生の発想から一歩も前に進んではいない。要は戦場に隣接したところに各キャラクターを置いておくためだけに、全員を戦艦に乗せて戦場から隣接したところに置き続けていただけのことなのだ。そして戦闘に巻き込まれることによって生じるドラマを、「リアルロボット」ものと呼んでいたに過ぎない(流石に五武先生は、もう少し工夫していたが)。この時期まで、この考え方は最先端であり、新しいものが出てこないがゆえに「リアルロボット」というムーブメントは停滞していたのだと言えるだろう。そして五武先生は、ついにこれに変わる最新の、そして禁断のバトルフィールド理論を、このガオガイガーにて公開することになる。それがこのDDなのだ。

 では何が問題だったのだろう。一言で言えば、DDによる空間湾曲によるバトルフィールド形成は、五武バトルフィード理論の進化にどん詰まりであり、もはやその先には何も無いということ。なぜなら誰も被害を受けない空間湾曲バトルフィールド以上のバトルフィールドを設定する必要性は、もはやどこにも無いからだ。また空間湾曲を使って誰にも被害の及ばない場所にバトルフィールドを設定するということは、(正義が必ず勝つということを前提にすれば)もはや戦闘からは何のドラマも生まれないということを意味する。これは戦闘を必然とするはずのロボットアニメにおいて、戦闘を否定することに他ならない。しかし、一度空間湾曲バトルフィールドというものが映像化されてしまった以上、今更「人間のいる街」「民間人の乗っている戦艦」をバトルフィールドにしても単に時代遅れなだけであり、その主役ロボはガオガイガー以下の存在でしかありえなくなってしまったのだ(まさしく、勇者<王>だ!)。つまり五武先生は、スーパーロボットが侵略者と戦うという、言わば「スーパーロボット」ものというムーブメントすら、時代遅れにし、滅ぼしてしまったのだ!。

 おそらく五武先生は、このことを最初から判っていたのだと思う。だからこのDDという伝家の宝刀を、この日まで抜かずにアニメ脚本家という仕事を続けてきたのだろう。だがエヴァを見てしまったからには、五武先生としては腰の刀を抜かずにはおれなかったのだと思う。そうでなければ、「エヴァへの返答」には成り得なかったのではないか。かくして日本における「スーパーロボット」ものというムーブメントは、現在に至るまで壊滅状態に陥ってしまった。本数が激減したのもそうだが、もはや単純なスーパーロボットと悪の侵略者が人間のいる街で戦う、という設定自体がガオガイガーによって時代遅れになってしまったからだ。現在もスーパーロボットアニメは一切無くなったわけではないが、メタ的な作品か、あからさまな過去の作品に対するパクリか、他のジャンルとの融合(美少女ものとか、宗教ものとか)くらいしかあり得なくなってしまった。”ロボットアニメの職人”であるはずの五武先生自身も、このガオガイガー以降、「思春期美少女合体ロボジーマイン」(99年)という、美少女ものとも融合作品を一本作っているだけである。これはガオガイガーを作ってしまった懺悔の気持ち・・・などではなく、やはり五武先生もまたガオガイガー(つまりDD)を超えるさらなるコンセプトをなかなか創造することができず、かといって今更時代遅れのロボットアニメを作ることなど、耐えられないということなのではないだろうか。ガオガイガーとは、かくも業の深い作品なのだ。

 一応この後のガオガイガーの展開を。当然のことながら第一法則が発動し、五武先生は<斬首>される。筆者はこのことに、一切の異議を持たない。ガオガイガー自体すら、DDによって物語の展開に強力な制約を受ける状態に陥ってしまい、むしろDDを無かったことにしてしまいたい位の勢いだった(後半、ガオガイガーにおけるDDの使用頻度は、激減していく)。後にガオガイガーのOVA版が作られるが、これに五武先生が参加していない理由も、判って貰えると思う。もう一つ言えば、DDはおもちゃとしても、アピール度が低かったように思う。やっぱり直接敵をぶったたたく、ゴルディオンハンマーの方が、視聴者のニーズにも合っていたことだろうし。しかしあまりにも高年齢層をターゲットに作られすぎたガオガイガーは、結果としてタカラの勇者シリーズにピリオドを打つことになる。それどころか、「無敵超人ザンボット3」以降、時間帯を変えながら続いてきた、「サンライズ」枠が、このガオガイガーによって終止符を打たれる事にもなる。サンライズにおける最初の作品も、そして最後も五武先生の作品だったのは、ここまで読んでくれた方にとっては何の不思議も無いことだと思うがどうだろう。

 かくして五武先生の、”ロボットアニメの職人”としてのキャリアは「思春期美少女合体ロボジーマイン」(99年)を持って終了することになる。これ以降も五武先生はアニメの脚本を書いているが、ロボットアニメの脚本を書くことは一切なくなってしまった。筆者はまれにではあるが、果たして五武先生がDDを映像化してしてしまったことは、本当に良いことだったのだろうかと考えることがある。DDさえなければ、今でも何事も無かったかのようにス-パーロボットアニメは量産され、五武先生もまた、ロボットアニメを書いていたかも知れない。しかし、これできっと良かったのだろうと思う。どんなジャンルに関しても進歩は必要であるし、いつの日か、どこかの天才が"日本アニメ史”を編纂する日が来れば、必ずやガオガイガーにおける五武先生のDDに目を留める日もやってくることだろう。そして何よりも、五武先生は、いまだ健在なのである。いつの日か、ガオガイガー以上のコンセプトを引っさげた五武先生が、獅子の頭を胸に付けたスーパーロボットを主人公にアニメを製作する日がやってくる、筆者はそのことに何の疑いも持っていないのである。

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コメント

ダ・ガーン!何と。あの作品も五武テイストだったとですか!考えてみれば第三第四法則が適用されているような。一番衝撃的だったのは遺跡を吹っ飛ばしてマスコミの非難を浴びる主人公って回もありましたっけ。意外でした。

投稿: お茶の子 | 2006.02.18 20:05

もう見ました、面白いですね

投稿: 勇者王ガオガイガー 画像 | 2010.12.22 10:29

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